103系 京都・神戸線

●諸元
形式 モハ103・モハ102・
       クハ103・サハ103
編成 7両編成
本数 1本
営業最高速度 100km/h
設計最高速度 110km/h
起動加速度 2.0km/h/s
減速度 3.5km/h/s(常用最大)
          5.0km/h/s(非常)
編成定員 992名
最大寸法 長さ 20000mm
             幅 2832mm
             高さ 4140mm
車体材質 普通鋼
主電動機 直流直巻電動機MT55(110kW)
駆動装置 中空軸平行カルダン
制御装置 抵抗制御 直並列組み合わせ
             弱め界磁制御
台車 コイルばね台車
制動装置 発電ブレーキ 電磁直通ブレーキ
保安装置 ATS-Sw・ATS-P
●配置区所
宮原総合運転所
●運用範囲 
東海道本線(京都ー神戸)

1969年、72系や51系などの旧型国電の置き換え用と東海道・山陽本線のスピードアップの為に投入された。
当時の東海道・山陽本線の緩行電車には72系や51系、70系といった旧性能車が使用されていた。しかし、これらの車両は低性能であり、72系以外の車両は3扉・セミクロスシートであった為、混雑が激しかった。特にラッシュ時は飽和状態であり、乗車率は東淀川→大阪で303%、塚本→大阪で282%を記録していた。又、利用客が多い為、過密なダイヤも組まれていた。当時の東海道・山陽本線は複々線とはいえ、外側線・列車線は國鐵本社の管轄であり、一般の地域輸送の列車が走れるのは大阪鉄道局が管轄する内側線・電車線のみだった。その為、快速と普通がラッシュ時でも同じ線路を使っていた上に緩行電車が低性能である為、快速から逃げ切れず、満足なダイヤが組めなかった。そこで、大阪鉄道局は國鐵本社に各駅停車用の新車を318両要求した。しかし、國鐵本社は増発する必要があるのなら増発ではなく増結すればいいのではということで却下された。1964年から快速電車に113系が投入されると、ますます普通電車との性能に差が開く一方となった。この頃になると、大阪鉄道局の考えが変わり、線路の使用の仕方次第では各駅停車用の専用車ではなく103系のような既存の新性能車で適するという意見が出た。そこで、1970年に大阪万博が控えてたことも踏まえ、それまでに103系を投入する要求を書き入れた。
103系の構想段階では東海道・山陽本線の普通電車や常磐線にも新型通勤電車の構想はあったものの、103系をそのまま投入するのではなく、長距離向けに手直しした新形式「105系」(後に登場する105系とは異なる)を計画していた。この「105系」は、車体は103系で機器を113系のようなMT54を使用したものとしていた。しかし、現状の103系と大きな違いが認められず、逆に103系の優位性が確認できたことから駅間距離が長い線区でも103系が使用可能と判断した。更に、関西地区専用形式を要求しても、國鐵は東京優先にする為に関西地区は後回しにされ続け、いつ投入されるか分からない、1970年の大阪万博までには新型を入れたいという大阪鉄道局の思いがあり、常磐線でも問題無く103系が使用されてることから東海道・山陽本線にも103系を投入することになった。
車体は20m・4扉であり、101系とほぼ同一である。前面も101系後期車をベースとしているが、前面窓の高さが少し高くなっている。これは、踏切事故対策によるものである。又、前面窓下には通気口が設置されたが、東海道・山陽本線においては殆ど蓋がされていた。側面も101系と大差は無いが、側窓のサッシが太くなった。これは、当時混雑路線において窓が変形するということが多発してた為である。車内はオールロングシートであり、101系と大差無いが、扉がステンレス製になっている。床下機器は大幅に変わり、主電動機がMT55となり、短距離路線向けとなっている。その為、低速域の加速は良いが高速域になると加速が悪くなってしまい、東海道・山陽本線では不向きな電車となってしまった。台車はコイルばね台車を装備している。
1969年8月、東海道・山陽本線に103系が投入が始まり、翌年2月までに7両編成15本105両が明石電車区に投入された。新性能車である為、旧性能車の最高速度90km/hを上回る95km/hで運転することができ、発電ブレーキの使用と相まって駅間運転時分の短縮が図れた。置き換えられた旧型国電は、51系が飯田線・身延線・赤穂線などに、72系が首都圏の周辺線区や阪和線などに転属した。1971年には70系が仙石線に転属し、51系よりも先に70系が撤退した。
1972年には1次改良車が投入された。それまでに投入された車両との違いは、前照灯がシールドビームになったことと側窓のユニット窓化である。これらの車両は7両編成15本と予備車として4両編成1本の計109両が投入された。これらの車両を投入したことによって、日中の東海道・山陽本線の普通電車は103系に統一された。その為、同年3月にはダイヤ改正が行われ、日中の新快速を1時間1本から4本に増発し、普通電車の系統を京都ー甲子園口と吹田ー西明石に分断した。これは、旧型国電では新快速から逃げることすら出来なかったが、103系でも京都ー西明石の直通運転では新快速から逃げ切ることが出来なかった為である。
この頃になると、普通列車にも冷房車が投入される時代になってきた。新快速は急行型である153系を導入し、快速の113系も1970年から冷房改造が始まった。又、競合する私鉄も、阪急は5200系や5100系、阪神は7001形・7801形40番台や5261形、山陽は3050系を投入し、冷房化を進めていた。そんな中、國鐵では各駅停車にも冷房を導入することになり、山手線・中央線快速・大阪環状線に続く4番目として東海道・山陽本線の緩行電車にも投入された。1974年から投入が始まり、7両編成11本が高槻電車区に配置された。この時から編成単位の製造では無く、首都圏ATC準備工事に対応した高運転台の制御車と東海道・山陽本線向けの中間車を製造し、制御車は首都圏で差し替えて東海道・山陽本線に投入するという手法がとられた。ただ、このクハ103は前年に山手線・中央線快速に投入された新製冷房車であり、ほぼ新車に近い車両だった。
以上3次に渡って103系が製造され、7両編成41本と予備4両編成1本の計291両が製造された。しかし、1975年の時点でまだ100両以上の72系・51系が残っていた為、同年4月から更に103系を投入し、9月には東海道・山陽本線の新性能化が完了した。
最終的には明石区に7両編成39本、高槻区に7両編成15本の計7両編成54本の382両が東海道・山陽本線にて運用されることになった。
新性能化を果たした東海道・山陽本線の普通電車であったが、旧型国電よりかは高性能とはいえ、103系自体が短距離用に製造されており、駅間距離の長い東海道・山陽本線には不向きであったこと、その性能故に系統を分断せざるを得ない状況になっていたことから、1980年代には置き換えが始まった。
1983年からは201系が投入され、1985年までに7両編成32本の224両が明石区と高槻区に配置された。これにより、103系は関西本線や片町線に転属し、同線の101系を置き換えた。1985年には日中の東海道・山陽本線の普通電車が201系に統一され、串刺しダイヤが解消された。
1986年には205系が7両編成4本が投入され、明石区に配置された。これにより、103系は武蔵野線と阪和線に転属した。
1987年のJP移管時には全体の3分の2に当たる7両編成36本252両が200番台の新系列で運行していたが、朝夕を中心に103系の運用は残っていた。この残りの103系は元々は205系を更に投入し、1988年までに全車置き換えを計画していたが、分割民営化により計画が白紙に戻された為、しばらく103系が東海道・山陽本線に残留することになった。
1989年には、福知山線の電化区間延長に伴い、非冷房車編成のうち、7両編成3本を4両編成化して福知山線に転属、7両編成1本を4両編成+3両編成にして片町線に転属した。これにより、非冷房車編成は7両編成1本のみとなった。
1990年、非冷房車編成のトレードが日根野区との間で行われた。この時転入した編成は東海道・山陽本線の103系では初の中古車のみの編成となり、京都方の先頭車は101系改造のクハ103-2052、あとの6両は元山手線という編成だった。
1991年、片町線への207系投入により同線の103系が転属、非冷房車編成を置き換え、東海道・山陽本線の普通電車の冷房化が100%となった。置き換えられた非冷房車編成は、モハユニットは延命NB工事を施工しWAU102型で冷房化、奈良区に転属した。
1994年3月、東海道・山陽本線にも207系が投入されることになり、6両編成14本・2両編成14本の計112両が高槻区に配置された。これにより、東海道・山陽本線から103系が完全に撤退した。
1995年、阪神淡路大震災が発生した。当時の103系は営業運転からは撤退したものの、転属待ち等で明石区に残っており、復旧の際にはこれらの103系を再び使用した。又、広島区や日根野区、宮原区からも103系をかき集め、車両不足を補った。これらの車両は、全線復旧後は再び元の所属区に戻り、明石区の車両は他線に転属した。
1997年、東西線開業による尼崎駅構内の配線改良により、福知山線の普通電車が東海道本線と直通するようになった。これにより、福知山線で使用していた宮原区の103系が7連化され、東海道本線尼崎以東でも走ることとなった。これらの車両は、元々カナリアイエローであったが、誤乗防止の為201系と同じスカイブルーに塗装変更が進められた。
2001年、明石区に103系の配置が復活したが、これは和田岬線用であり、東海道・山陽本線での営業運転は行わない。しかし、旧来の青22号が継承されている。又、兵庫ー大久保で回送ではあるが走行する。
2003年、宮原区の103系も207系に置き換わることになり、明石区に207系4両編成8本、3両編成8本計56両が投入され、宮原区の103系7両編成8本が置き換えられた。これにより、東海道・山陽本線での103系の運用は再び消滅した。
2005年、福知山線ATS-P配備に伴う車両やりくりの影響で、東海道・福知山線に103系の運用が復活した。具体的には、宮原区を出庫し、大阪→甲子園口→京都→新三田→大阪→宮原区入庫となる運用で、最初は森ノ宮から借り入れ、サハを抜いた7両編成で運転された。後にサハ以外を森ノ宮に返却し、クハを広島区から転属、モハユニットはJP東日本からの譲渡車で7両編成を組んだ。この7両編成はスカイブルーを纏った。
2005年12月、103系の運用が321系に一旦置き換えられた。
2006年3月のダイヤ改正で103系の運用に変化が起きた。宮原出庫であることは変わりないが、経路が朝に宮原出庫→大阪→甲子園口→京都→西明石→明石区入庫、深夜に明石区出庫→西明石→大阪→宮原入庫という運用になった。これにより、東海道本線甲子園口以西での運用が復活した。
2011年、北新地駅可動式ホーム柵設置に伴うドア位置統一の為、おおさか東線経由の直通快速が207系が使用されることになった。その影響で、東海道・山陽本線の車両が不足することから、日根野区から宮原区に205系を転属することになった。これにより、103系の運用を代走する際はこの205系が使用されることになった。又、この時103系も7両編成3本が宮原区に転属したが、これらは朝ラッシュ時の福知山線運用に充当する為、東海道・山陽本線の運用に就くことはなかった。
2013年、205系が103系と共通運用を組むことになった。
2018年現在、網干総合車両所明石品質管理センターに和田岬線用の6両編成1本、宮原総合運転所に7両編成4本が在籍しており、宮原区所属車の7両編成が東海道本線京都ー神戸、山陽本線神戸ー西明石が運行範囲となっている。東海道・山陽本線の103系は321系の後継となる次期次世代型通勤型電車での置き換えがアナウンスされてるが、具体的な時期はまだ決まっておらず、もうしばらくは103系で運行するものと思われる。