201系 京都・神戸線

●諸元
形式 モハ201・モハ200・
       クハ201・クハ200・サハ201
編成 7両
本数 22編成
営業最高速度 100km/h
設計最高速度 110km/h
起動加速度 2.5km/h/s
減速度 3.5km/h/s(常用最大)
          5.0km/h/s(非常)
編成定員 992名
最大寸法 長さ 19500mm
             幅 2800mm
             高さ 4140mm
車体材質 普通鋼
主電動機 直流直巻電動機MT60(150kW)
駆動装置 中空軸平行カルダン
制御装置 サイリスタチョッパ制御
             弱め界磁制御
台車 空気ばね台車
制動装置 回生制動併用電磁直通空気制動
保安装置 ATS-Sw・ATS-P
●配置区所
網干総合車両所明石品質管理センター
●運用範囲 
東海道本線(草津ー神戸)
山陽本線(神戸ー加古川)
湖西線(山科ー永原)
武庫川線(西ノ宮ー武庫川)

1982年12月、東海道・山陽本線の103系を置き換える目的で製造され、1983年2月から営業運転を開始した。当時、東海道山陽本線の京都ー西明石の普通電車の大半には103系が使用されていたが、同線は駅間距離が長く、近距離用として設計された103系には到底不向きであった。又、103系の中には非冷房車も在籍しており、冷房化促進を迫られていた。更にそれだけでなく、片町線や関西本線には101系、東条線・淀川線には72系などの旧型国電が残っていた為、これらの置き換えが課題となっていた。そこで東海道・山陽本線に201系を投入することで、スピードアップ・冷房化・他線の近代化を図る事となった。
車体は普通鋼の20m・片側4扉であり、基本的な構造は103系を踏襲しているが、新系列車両として多くの新機軸を盛り込んでいる。前面は上半分の大半を黒色とし、窓配置も左右非対称となった。側面は、客用扉窓と戸袋窓が小窓となり、側窓がバランサー付きの上段下降・下段上昇式の二段窓となっている。妻面窓は一枚固定窓となった。又、あらゆる部分で腐食防止が施されており、ガラス支持がこれまでのHゴムから押え金方式となっている。車番は特急型並のステンレスの切り抜き文字とされ、高級感を出した。通風器は角型押し込み式を採用し、冷房装置はステンレスキセのAU75Gを採用した。塗装はこれまでの103系と同じく青22号とした。車内は103系と同じオールロングシートとなっているが、冷房車として設計されている為天井がフラットになり、化粧板も白系のものを採用し、車内の雰囲気が明るくなっている。これまでは寒色系の化粧板が採用さらていたが、従来の101系や103系では昭和50年代の時点で既に時代遅れとなっており、競合する阪神・阪急などの私鉄に比べて見劣りするようになっていたことから、「魅力ある車両」を開発する方針が打ち出さられた。これにより、201系では通勤型にも明るめの色の化粧板が採用され、落ち着いた雰囲気となった。座席の端には袖仕切が設置されている。制御装置は201系最大の特徴であるサイリスタチョッパ制御である。チョッパ制御は回生ブレーキが使用できる為、電力の省エネに貢献している。又、電機子チョッパ制御を採用することで使用実績のある直流直巻電動機を使用することができている。又、主電動機を新たにMT60を開発することで、高速域からの回生ブレーキを使用できるようにしている。更に主電動機を150kWに上げることで、加速度の低下を防止した。これらの新機軸を採用することで、最高速度は103系と同じ100km/hであるものの、高速域の加速が格段に上がり高速化が達成されている。台車は特急型並の空気バネ台車にして乗り心地を大幅に改善した。
最初の7両編成10本は高槻電車区に配置され、後の22本は明石電車区に配置された。このうち、明石電車区に配置された最後の9本は側窓を二段上昇式・車番の転写表記化などに変更した「軽装車」である。
1985年には7両編成32本全ての編成が揃い、明石電車区・高槻電車区の103系は淀川電車区や奈良電車区に転属し101系を置き換え、関西本線の普通電車の103系統一・片町線電化区間・淀川線の7両編成化が実施された。置き換えられた101系は神戸電車区に転属し72系などの旧型国電を置き換えていった。全32本投入したところで全体の過半数を201系が占めるようになったので、1985年3月のダイヤ改正でスピードアップが図られた。又、当時201系の運用範囲は京都ー西明石のみだったが、この時から東は草津まで、西は加古川まで入線するようになった。1986年には高槻電車区に配置されていた201系が明石電車区に転属、全32本が明石電車区に集約された。同年秋には日中の普通電車のうち吹田ー甲子園口の普通が高槻ー神戸に延長されることに伴い、車両が増備されることになったが、これは205系で補われた。
1987年4月に分割民営化され、國鐵からJP西日本に引き継がれ、引き続き東海道・山陽本線の普通電車で運用された。
1992年からは排障器が設置された。
1994年3月には、207系が投入され、103系を完全に置き換えたが、この時103系の湖西線運用を201系で置き換えることになった為、この時から201系による湖西線運用が誕生し、堅田まで乗り入れるようになった。
1996年、207系の運用が朝夕ラッシュ時主体となり、201系・205系の運用が増加した。これは、日中に関しては6両編成では輸送力が不足し、8両編成では過剰になったことから7両編成で運行されるようになった為である。
1997年、東西線開業に伴い、これまでの京都・高槻ー須磨・西明石の系統のうち、半数が尼崎から東西線に入線するようになった。これに伴い、高槻発の列車を尼崎から福知山線に入線することになった為、201系も福知山線新三田まで入線するようになった。この時から日中は須磨→高槻→新三田→京都→須磨の経路で運用されるようになった。この時、207系は大半を東西線の運用に入れたことから、日中の東海道本線尼崎以東に入線する列車の大半が201系・205系の運用となった。
1998年、須磨発着の列車が全て西明石に延長された。これは、明石海峡大橋開業と淡路線舞子延伸に伴うもので、これにより201系・205系の運用のうち、日中に稼働する運用が27運用に増加した。
2000年、深夜時間帯の湖西線列車が混雑するようになってきた為、深夜時間帯の列車のうち一往復を113系から201系・205系の7両に置き換えることになった。これによって201系が永原まで入線するようになった。
2002年、201系の通風器の撤去が開始された。これは、201系軽装車の通風器が鋼製であったことから腐食が進行していた為である。この工事は2005年まで行われたが、全編成には及んでいない。
2002年からは再び京都ー西明石・高槻ー新三田に再編されたが、201系の福知山線乗り入れは続いた。しかし、2003年に207系2000番台の増備により、201系は日中の福知山線直通列車からは撤退した。
2003年11月からは201系に対しても体質改善工事(30N)を行うことになった。2003年時点で201系の車齢も20年を迎え、更新の時期に差し掛かってた為である。更新の内容は戸袋窓の閉塞・側窓の取り替え・雨樋の外板との一体化・前照灯のガラス内収納化・化粧板交換などである。体質改善工事は2005年まで行われ、7両編成13本に施工された。元々は全車に行う計画であったが、2006年以降予算が運転状況記録装置の取り付けなどの安全対策に投資されるようになった為、後に森ノ宮区や奈良区に転属した編成を除き中止となり、残りの編成は現在も未更新のままである。
2005年から321系の投入が始まり、201系・205系の置き換えが始まった。これは、福知山線の普通列車の性能を207系と同じ120km/hに引き上げる目的であり、これにより201系と205系の一部が明石区から転出した。201系は当初森ノ宮区に転出予定であったが、そうすると4両+4両の8両編成や6M2Tの8両編成が出来上がってしまい、6M2Tの組成は大阪環状線の変電所が耐えられないことから6M2Tの組成は組まないことにした。又、4両+4両も不要な制御車が出来てしまい、労働組合からの反発も出た。この為、当初の予定では転出と同時期に体質改善工事を施工する編成を対象としていたが、転出両数を予定より多くし、既に体質改善工事を施工していた編成も転出することで一部を6両編成に組み替え、奈良区に転出した。この結果、7両編成10本がそれぞれ8両編成5本、6両編成5本に組み替え、8両編成は森ノ宮区に、6両編成は奈良区に転出した。残りの7両編成22本は明石区に残留した。この置き換えにより、2007年3月には福知山線から完全撤退した。
2006年10月からは電化した武庫川線での運行が始まった。
2007年以降、森ノ宮区や奈良区の201系では冷房を交換したものや方向幕をLEDにしたものが出てきたが、明石区の201系では施工されなかった。
2007年の秋頃からは転落防止幌の設置が始まり、こちらは全車完了している。
2014年からはデジタル無線の設置が行われ、2017年までに全車完了した。
2018年現在、7両編成22本が網干総合車両所明石品質管理センターに所属しており、東海道・山陽本線草津ー加古川、湖西線永原ー山科、武庫川線西ノ宮ー武庫川で運用している。